『いちえふ』

10月理事推薦本(2)
竜田一人著『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1)~(3)』(講談社 2014年、2015年)

 「いちえふ(1F)」とは、東京電力福島第一原子力発電所のことである。
 周知の通り、福島第一原子力発電所は2011年3月11日に発生した東日本大震災によって生じた津波によって被災し、1号機から3号機の3つの原子炉で炉心溶融という、人類史上最悪と言ってもよいほどの事態を生じ、今日に至っている。
 この作品の作者である竜田一人さんは、実際に「いちえふ」の作業員として2012年から現場に入り、一作業員の目線から原発敷地・建屋内で行われる様々な工事の様子を漫画としてリアルに淡々と描いている。
 作品は滝田さんが作業員として原発区域内に入る時の、実際の具体的な手順を仔細に描写するところから始まる。作業着、手袋、靴、マスクなど、放射線から身を守るための装備を着用すること、放射線カウンターのチェックを受けること、作業員メンバー同士での安全確認を行うことなど、その場で経験しなければ知り得ないことが描かれていく。描き出される作業そのものは、とても地味なものであり、ドラマチックなものではない。しかし、その作業が行われる場が原発敷地内であるという点において、すべてが異なるのである。そして「いちえふ」における作業が様々な下請け業者の複雑な請負構造のもとで細分化され、リスク管理や待遇もそれぞれに異なっていることが、作業員の日常を描く中で語られてゆく。
 滝田さんが「いちえふ」を通して訴えるのは、こうした作業に見られる労働問題や待遇問題ではない。この点に関してはむしろ、どれだけ作業員が守られているのか、安全管理がどのように行われているのかが強調される。原発問題について、ことさらその問題点だけ取り上げて面白おかしく報道しようとする姿勢にも疑問を呈する。したがって「いちえふ」を読んでいるうちに「いくら原発と言っても、その辺の土木作業と変わらないんだ」と思い込んでしまうほどである。しかしやはりこの作品は単なる「記録」に止まらないし、「いちえふ」における作業はその辺の土木作業とはまったく違うのである。
 それが感じられるのは、例えば第3巻で描かれた1号機原子炉建屋内での遮蔽物の移動作業の様子である。作業員が団結して大型の遮蔽物を移動する様子は、あたかも戦場の最前線で敵が放つ銃弾を避けながら行われる作戦行動そのものだと思わせるものであった。つまり、「いちえふ」そのものが「戦場」なのだと気がつかされるのである。作業員という「兵士」は「放射線」という見えない「敵」に、文字どおり身体を晒つつ「作戦」を遂行する。これが延々と続くのである。
 ここに至って私たちは、常日頃都会で便利極まりない生活を謳歌しつつ、その一方で、人の命を危険にさらす危ない作業を誰かに押しつけて暮らしている、という事実に気がつかされるのである。
 よくよく考えてみると、これは「いちえふ」に限ったことではないのではないか。
 すなわち、様々な労働の現場では、多くの人が自らの命を危険に晒しながら働かざるを得ない状況に置かれているのではないだろうか。そうした人々の労働がなければ、私たちの便利な生活も成り立たないはずだ。
 運送業で深夜の高速道路を長距離移動しているドライバーの人々、食品加工工場で冷凍した大きなマグロや鰹を機械鋸でひたすら切断している人々、ダブルワーク・トリプルワークで寝る時間を削ってパート労働に従事する人々などなど、様々な仕事に様々な危険が伴っていることはいくらでも想像できるのである。
 そうした人々の労働によって、私たちの快適な生活が成り立っていることに気がついたとき、「いちえふ」における作業とそれに従事する人々の姿そのものを、現代社会の縮図として読み取ることができるのである。
 作者の滝田さんも作中で次のように主人公に語らせている。

 「(この作品を描こうと思ったのは)
 誰かに頼まれたわけでもなく、描かなければならない理由があったわけでもない
 だが無人の警戒区域や津波跡の光景と
 あまりに対照的な東京の夜景を見るうち
 なぜか俺の心には やはり描くべきだという思いが 湧き上がってきていた」(第3巻p.6)

 滝田さんがこの作品を描こうと考えたきっかけは、被災地と大都市との間に生じたあまりにも大きなギャップであろう。
 そのギャップの存在を、私はこの作品に触れることで気がつかされたのである。
 この作品の価値は、したがって、原発における作業のひとつひとつを描き出していることに留まらない。むしろ今まで知り得なかった原発作業の実態を描き出すことを通じて、現代社会の構造とそれが孕む問題を暗示している点にあると思う。
 単なる漫画と侮ることなかれ。この漫画は実に多くの深い示唆に富んでいる。(TH)