喗峻淑子著 『対話する社会へ』(岩波新書2017年)
作者が、「ドイツの友人に教えてもらった、対話が続いている間は、殴り合いは、おこらないという言葉に含蓄された意味が時がたつにつれてわかってきて、戦争、暴力の反対語は、平和ではなく対話です。」と言い切るようになったその経過に惹かれ、この本を手に取った。だが、何回も読んでいるうちに、私がこの本をすぐ読みたくなったのは、かなり前からとても気になっていた事が根っこにあったことに気付いたのである。
教育現場で長年働き、退職後もその片隅に関わらせてもらっている私が、気になっていた事、それは、職員どおしの会話や、先生と子どもたちとの会話が日常的にすごく少なくなっていること。さらに小さい子ども連れの親たちが、子どもを叱り飛ばしている姿ばかりを多く見かける事、子どもの顔を見ずにスマホに夢中になっている事等である。幼い時から家族で良く話し合っている姿を見て、自分も早くその輪の中に入りたいと思って育ってきた私にとっては、会話がない生活は考えられなかったからずっと気になっていた。人と人が生きている社会とは、かたわらの人を気にかけ、声掛けしていくものではないかと思いつつも、どうしたらこの閉塞状況を打ち破れるのか分からなかった。だからこの本に飛びついたのだと思う。
作者は、人と人が話すという様々な行為を、敢えて「対話」という言葉で表現し、哲学的な考察を試み、その言葉の持つ可能性と希望を提起している。
「人権の中核となる自由と平等、反強制性、相互性などを具現しているのが対話という話し方ではないか」と定義し、「対話の持つ平等性、相互性、話し手の感情や主観を排除しない人間的全体性、勝ち負けのない対話の中からうまれるものへの尊厳―それらのことが対話の魅力」と語り、「対話の基本精神は民主主義である」と。
そして、今まで起きた、いや今も渦中にある数々の事故や、事件は、「対話が十分に時間をかけて行われなかった結果ではないか。」と述べている。一方、数少ないが、粘り強い行政と市民の対話の結果生まれた通称「武蔵堺通り」と言われる、調布都市計画道路3・2・6号調布保谷線を紹介している。実際に見に行きたいと思わせる美しい通りが実現したそうだ。作者は対話の成功事例が日本に少ないのは、日本の社会は、「察する文化、甘えを許容する文化、依存の文化」であり、「対話やディスカッションを必要としない文化、言葉にする重要性をあまり認識していない社会」と断じている。さらに「対話が成立している社会であるかどうかで、自立した市民社会の度合いが量れるのかもしれない。」と述べている。確かに「空気を読む」ことが、美徳のように語られ、政治の世界でも、重要なことがきちんと議事録として残されていないのを許している社会には、「対話」は根付いていない証拠だと思える。
ハイデッガーは、言葉を「存在の家」と表現し、アリストテレスは「人間は、言葉を持つ動物である」と述べたと書かれていた。
一人ひとりが自分の言葉を持ち、お互いに対等な立場を保証され、話し合える「対話」を私たちの日常生活に生み出すことが、回り道のように見えても、生き生きとした社会、若者が自死しない社会を創りだすために必要なのではないかと思えた。
さらに、世界に目を向けても、「粘り強い対話こそが、唯一戦争を回避できる道ではないか。」と思えた。
いつも子どもたちに向き合っている先生方や子育て真っ最中のお母さん方をはじめ多くの人に是非読んでほしいと思った。(NJ)