綾屋紗月・熊谷晋一郎著『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく」(NHK出版 生活人新書 2010年)
「この子には、何かあるのかもしれない。」
学校現場で働いていると、周りの子とうまく会話が成立しない、説明不足でトラブルが多い、自分勝手すぎる、落ち着きがない、などの特徴がある子のことを、こういった見方で観察することがある。教室の中で「何かある」と思った場合に考えるのは、発達障がいの疑いだ。ADHD、LD、自閉症…など、それぞれの特徴に照らし合わせて、どれに当てはまるか考え、寄り添おうとする。時には専門機関に相談したり、個別の対応をしたり、学習のやり方を工夫してみたり。そして、対象の子が座って学習することが出来たり、周りの子に合わせて行動できたりして、ほっと胸をなでおろすのだ。担任として、そうあってもらいたいと努力もするし、どうしたら、クラスに馴染んで、楽しいと思ってもらえるだろうと悩みもする。教室の中で、椅子に座って教科書を出していたり、離席せずにグループ活動に参加したりしている子どもの様子を見ながら、私がやってきたことは、間違いではなかったのだと安心し、保護者もその状況に満足し、お互いに「良かったですね」「先生のおかげです」などと言いながら面談で談笑する。それが、普通だと思ったし、それがいいクラスづくりの在り方だとも思っていた。
しかし、この本を読んで、そういった学級経営が本当に良いものなのか、考えさせられてしまった。
例えば、「アスペルガー症候群」にはいくつか目立つ特徴があるといわれている。その中の一つが「コミュニケーション能力の限界」である。今では多くの人がこの特徴を知っているのではないだろうか。この本の著者である綾屋氏は、この障がいを持つ一人だ。そして本の中でこう語っている。
『コミュニケーションは、二者の間に生じるものなのに、なぜその限界を一方のせいにできるのか。いったい誰が困って、これを障害と定義したのか。~社会ではじかれた私たちが集まった時には、何の問題もなくコミュニケーションが成立しているではないか。』
目からうろこだった。今までの私に、「子どもに寄り添っている、なんてよく言えたもんだ」と言ってやりたい気持ちになった。もう一度、先ほどのクラスの在り方を振り返ってもらいたい。一見良さそうに見えるクラスの風景が、いかに一方的で、多数派である「健常者」の押しつけがましい学級経営なのかがわかるだろう。
望みもしないタイミングで、授業中なのに何が書いてあるかわからない本(教科書)を持ってきて、親切に説明してくれようとしているが、何を言っているのかわからなので、とりあえず隣の子がやっているように本を持って様子を見てみよう。そうすれば、特に何も言われないし。大きな声も出されないし。だって「この子(担任)には、何かあるのかもしれない」から。
そう思われていたのは実は私の方だったのかもしれない。そう考えると面白いが、相互の「コミュニケーション」や「理解」はできていなかったのだろうと思う。では、そういった児童とはどう関わるべきなのか。当事者は、どんなことを望んでいるのか。
この本では、アスペルガー症候群の綾屋氏と、脳性麻痺の熊谷氏の経験や障がいについて、述べられていて、それがとても分かりやすく、興味深い。まるでお二人の体に乗り移って、追体験をしているような気持になるのだ。そして、その両者が、他者と「共感」し「つながる」ためには、当事者研究が必要性であると説いている。当たり前だが、障がいがある人だって人である。誰かとつながりたいと思っている。そのために「共感」したり、してもらったりしたいと考えているのだ。しかし、様々な特性が複雑に絡み合い、自分の思いをどういう言葉にして、どういった形で表現していいのかわからないことが多いようだ。当事者研究を進めることで、もやもやした感情が言葉に代わり、「共感できる情報」に変わる。そういった情報を増やし、私たちが情報を得ることで、私たちとのつながり方、関わり方にも良い変化をもたらしてくれるのではないだろうか。(MR)