日本軍兵士

理事推薦本
吉田裕 著『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実-』(中公新書 2017)

 ウクライナ戦争が始まって、もうすぐ2年が経過しようとしているが、未だに終息する気配が見られない。昨年10月に始まったイスラエルによるガザ侵攻も先行きの見えない状況が続いている。SNSなどを通じて、これまで以上に戦争の悲惨さがより現実的なものとして視聴することが可能になったとはいえ、画面に映し出された光景を現実に起きていることとして認識するのはなかなか難しい。マスコミの報道もウクライナにせよガザにせよ、以前よりは下火になってしまった。情報を受け取る私たちも、それらが遠い国での戦争であるためか、いつの間にか「他人事」として捉えるようになってしまっているのかもしれない。一方で、他国の戦禍を糧としてそれが近々この国にも起こりうる可能性が吹聴され、私たちの不安を煽り、せっせと軍備強化を図る風潮が一般化してしまった。一種のショック・ドクトリンとも言えるのだろうか。
 そのような時だからこそ、やはり私たちは戦争の悲惨さについてしっかりと認識する必要があると考える。それがどれだけ悲惨で凄惨でむごたらしいものであるか、戦争が個人に対してどのような現実を突きつけることになるのか、学び続ける必要があると考える。

 先の大戦(アジア・太平洋戦争)においては約230万人の日本軍将兵が命を落としたとされる。この本は、かれらが戦地において、どのような状況の中で落命せざるを得なかったのか、過酷で悲惨な現実を濃縮した本である。
 筆者の吉田は「『兵士の目線』を重視し、『兵士の立ち位置』から、凄惨な戦場の現実、(中略)『死の現場』を再構成」することを試みるとしており、とりわけ戦死者が急増する大戦末期(「絶望的抗戦期」と呼んでいる)の戦場に注目している。それらを読むと、戦争がいかに人の命を軽んじた愚かな行為であるかということを思い知らされる。
その目次は以下のようなものである。

序 章 アジア・太平洋戦争の長期化
第1章 死にゆく兵士たち-絶望的抗戦期の実態Ⅰ
膨大な戦病死と餓死/戦局悪化のなかの海没死と特攻/自殺と戦場での「処置」
第2章 身体から見た戦争-絶望的抗戦期の実態Ⅱ
兵士の体格・体力の低下/遅れる軍の対応-栄養不足と排除/病む兵士の心-恐怖・疲労・罪悪感/被服・装備の劣悪化
第3章 無残な死、その歴史的背景
異質な軍事思想/日本軍の根本的欠陥/後発の近代国家-資本主義の後進性
終 章  深く刻まれた「戦争の傷跡」

 ここからも分かるとおり、この本では日本軍兵士がいかに勇敢に戦ったのか、ということが語られるのではなく、落命した一人ひとりの兵士たちが置かれた「悲惨」としか言いようのない様々な状況が示される。
 例えば、一般に「戦死」と聞けば戦闘中での落命が思い起こされるが、第1章第1節で示されるように、戦争末期の日本軍の特徴は膨大な数の戦病死(戦場での病死)にあるという。中国戦線における統計では戦病死者の割合が7割以上であったとされている。しかも病死だからと言って病院のベッドで亡くなるのではない。戦場の荒野や路傍に置き去りにされるのである。以下、餓死・海没死・自殺・栄養不足・恐怖・疲労といかに兵士たちが身体的・精神的に過酷な状況に追い込まれていたかが詳しく説明されている。
注目しなければならないのは、こうした凄惨な状況が戦争の相手国の攻撃等によって生じたのではなく、旧日本軍自体の戦略的見通しの甘さ、精神主義、極めて貧弱な兵站(補給)によって自らもたらしたものであるという点だろう。国家の無謀な戦争意思に巻き込まれ、苦痛の中で落命した兵士の無念さを想うと、月並みな言葉ではあるが「二度と戦争を繰り返してはいけない」という気持ちを新たにする。
 戦争はそれによって多くの無辜の市民の命が犠牲になるという点において悪であることは明白だが、それ以上に、とりわけ近代以降の戦争では「国家」の意思の下で、一介の市民が「兵士」に仕立てられ、国家によって与えられた「大義」の下で殺人を強いられるという点で、さらに凶悪である。次の世代にこの愚かな行為を繰り返させないようにすることが、私たちの世代の責務であると考える。
 最後に、著者の吉田は終章の中で本書を記した理由の一つとして、昨今の日本社会に見られるようになった非現実的な戦争観や旧日本軍を礼賛する風潮を上げている。その風潮は本書が書かれた2017年当時よりももっと進んでいると言えるのではないだろうか。「安全保障」という名のもとに急速な軍備拡張に走っているこの国の先行きが心配でならない。(TH)