断とうにも断ち切れない人の結びつき「絆」は、誰のための合い言葉?
実施日時:2015年8月6日
実施場所:陸前高田市モビリア仮設集会場
ばいみースタッフ参加者:チュープサラーン、宮脇英理、清水真飛
子ども参加:11名
【活動内容の記録】
11:00 活動開始(夏休みの宿題)
12:00 昼食休憩
13:00-16:30 午後の活動開始(調理)、(宿題の続き)
16:30-17:30外遊び(高鬼ごっこ)
【活動報告】
今回のすたんどばいみーの震災支援では、事前に連絡をした時点で参加できる子どもが少なかったが、最終連絡で子ども集めを行った結果、新規の子ども3人を含め11名もの参加者を募れた。活動に参加できた子どもの多くが小学生であったが、残念だったのが、ほとんどの高校生や中学生が部活で参加ができなかったことである。日程をずらしたとしても、夏休み中の部活や合宿などで、参加が難しい様子だった。その中でも、部活終了後、少しだけでも顔を出してくれた高校生がいて嬉しさを感じた。
今回は、夏休みということもあり、夏休みの宿題と調理を行った。調理で作ったものは、中国のゼリーである「九龍球」のフルーツゼリーサイダーである。子ども達は、夏休みの宿題よりもデザート!といったように、ワクワクした様子で作っていた。宿題の合間でも、「ゼリー、固まったかな?」と確認する子どもがおり、予定よりも早く乾杯をして食べた。
今回の活動は子どもの成長を感じられた活動であり、また、震災当初から4年という歳月を感じた活動でもあった。震災当初からの活動で輪に居続けることが全くできなかった子どもが宿題に取り組んだり、お兄さんとしての一面を見せたりとした様子がみられた。震災当初、不安であることが感じとれるほど無表情であった5歳の女児が楽しそうに遊んでいたり、まだお腹にいた子どもがばいみーの活動で勉強をする様子もみられた。
活動を終了して子ども達の送迎をし、挨拶をして帰ろうとした矢先に、モビリアが避難所であった時から関わっていた男児から「次はいつ来ますか?」と聞かれた。震災当初から関わっている子どもたちを集めて活動しているのは、すたんどばいみーだけであるようだ。モビリアでの外部から来るイベントも減ってきているようでもあるようだ。今回の活動で、モビリアの仮設で関わってきた子ども達は9世帯中、8世帯移転をしていたことが分かった。すたんどばいみーの2011年4月から始めた“子どものための居場所づくり”活動は、今現在それぞれの家庭が新たなスタートを歩んでいるなかで、もう役割を終える方向に進んでいる。
現在、神奈川で東北の話しを聞くことはない。メディアでも取り上げられていることもない。メディアで取り上げられていることと言えば、オリンピック施設が予算オーバーだったので検討し直して再建するだの、安全を保障するうえで原発再稼働するよ万歳、という話題である。神奈川だけの話ではなく、日本の中で2011年東日本大震災のことは忘れ去られたような風潮が流れていないか。東北の現状は、さほど変わらない問題が未だに居続けている。
今回、活動を行ったなかでいくつか気になったことがあった。それは、大人たちの疲れていた顔や様子が見られたことである。仮設から移転をすることは、集団移転がない限り再度新たな関係を築かなければならない問題を孕んでいる。大人たちは、仮設からの移転を目標に駆け足で走ってきたなかで、移転ができたことによりその疲れがでているのかもしれない。つぎに、たかだ八起プロジェクトの蒲生さんに話を聞いたが、移転が決まっていない人たちは多く、資金がない、再建にあたり土地の問題、移転といっても仮設から仮設からの移転であるなどと不安定のなかで生活をしていることである。そして、震災当初から関わっていたおばあちゃんが、「もう無理して来なくていいよ。他の所だって来なくなっているし、あんたたちだけだよ。もう、大丈夫だから。」と話していたことである。イベント事も減ることで行事がなくなり地域との関わりがなくなっていったり、再建に向けた動きをしていかないといけない要因などが積み重なっているからだと考えられる。様々な問題が個人へとのしかかっている現状があるのだ。
2011年3月11日以来、世間を賑わしていた「絆」、「頑張れ日本」といった宙に浮いた言葉は、もう姿形すら見せていない。この日本の地では、これらの合言葉に便乗することで支援している気になっている偽善者、また、私には関係ないと思っている無関心な人々がいる一方で、未だに不安な苦しいなかで生活している人々はいる。この現状を目の当たりにして、「絆」とはなんだろうか。「復興」とはなんだろうか。「頑張れ日本」とは誰ががんばるのか。私たちすたんどばいみーは、築き上げてきた関係のなかで、出来る子ども支援を行ってきている。